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鹿児島地方裁判所 昭和54年(行ウ)2号 判決 1985年3月22日

原告(1)

荒武重信

原告(2)

川畑清美

原告(3)

立石力郎

原告(4)

中村弘明

原告(5)

吉満兼盛

原告(6)

橋本寛方

原告(7)

西村治朗

原告(8)

瀬戸口学

右原告ら訴訟代理人弁護士

立木豊地

川副正敏

森川金寿

佐伯静治

尾山宏

高橋清一

柳沼八郎

戸田謙

芦田浩志

新井章

重松蕃

北野昭弐

雪入益見

藤本正

深田和之

谷川宮太郎

古賀康紀

被告

鹿児島県教育委員会

右代表者委員長

尾辻達意

右争訟事務受任者教育長

井之口恒雄

右訴訟代理人弁護士

松村仲之助

和田久

伴喬輔

俵正市

池田

右指定代理人

唐鎌祐生

假屋基美

竹之内武熊

下尾穂

北川幸治

前原浩一

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和五四年四月一日付でなした原告ら(原告瀬戸口学を除く)に対する川内市立川内南中学校教諭を免じ、別表1の「現任校」欄記載の小・中学校教諭に任命する旨の各転任処分及び同日付でなした原告瀬戸口学に対する川内市立川内南中学校事務職員を免じ、別表1の「現任校」欄記載の小学校事務職員に任命する旨の転任処分をそれぞれ取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者の地位

原告ら(原告瀬戸口を除く)は、鹿児島県内の公立小・中学校にそれぞれ勤務する地方教育公務員であり、原告瀬戸口は、同県内の公立小・中学校に勤務する地方公務員であって、いずれも同県内の小・中学校に勤務する教職員をもって組織する鹿児島県教職員組合(以下「鹿教組」という。)の組合員である。

被告委員会は、原告らの任命権者である。

2  転任処分の存在

被告委員会は、昭和五四年四月一日原告らに対し、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下「地教行法」という。)四〇条を適用して、請求の趣旨記載のとおりの各転任処分をそれぞれ発令した。

《以下事実略》

理由

一  請求原因1(当事者の地位)、2(転任処分の存在)の事実は当事者間に争いがない。

二  本件転任処分の理由並びに経緯について検討する。

1  (川内南中教職員一四名の転任処分)

被告委員会の主張2(一)(1)の事実は当事者間に争いがない。

2  (内田、滝崎両校長と分会との関係)

(一)  被告委員会の主張2(二)(1)のうち、川内南中に内田忠雄、滝崎信義、島元佐明の各校長が在任したこと、その在任期間、昭和五〇年九月二八日の体育大会における「日の丸」掲揚をめぐって内田校長と鹿教組川薩地区支部川内南中分会との間に論争が行われたこと、同校長が右体育大会の後病気休暇をとったことはいずれも当事者間に争いがない。

(二)  (証拠略)によれば、内田校長、滝崎校長はいずれも、川内南中の体育大会において君が代を吹奏しながら「日の丸」を掲揚することを主張したのに対し、右川内南中分会はこれに強く反対を唱えて対立したこと、また右分会は、滝崎校長に対し職員会議を学校の最高決議機関として認め、校長はその決定に従って校務を執行せよとの法制度的に認められない要求を固執したこと、内田校長は昭和五〇年九月二九日頃から神経衰弱症兼習慣性頭痛となり、同日以降出勤せず、同年一〇月一八日から、教育センター勤務となった同年一二月一日の前日まで右病気療養のため休暇の承認を受け、右教育センター勤務後も昭和五一年一月二二日まで同様に休暇承認を得ていること、内田校長の後任である滝崎校長は、在任期間一年四月で、転任希望を出し、転出していること(同校長が一年四月で転出したことは当事者間に争いがない。)が認められる。しかし、右内田校長の病気の原因及び滝崎校長の転出希望が川内南中分会との軋轢によるものであると認めるに足りる的確な証拠はない。

3  (島元校長赴任後の川内南中の管理職と分会との対立)

(一)  (昭和五二年四月~七月の状況)

(1)(ア) 被告委員会の主張2(三)(1)(ア)<1>のうち分会が島元校長に対し、主任制に対する抗議、四月一五日に予定されていた全国統一ストライキに対する警告及び右ストライキ参加者に対して行った懲戒処分に対する抗議を行ったことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、川内南中の昭和五〇年度、五一年度の各学校要覧の進動機構表において職員会議は校長、教頭と並ぶ機関として表示されていたが、昭和五二年度の進動機構表において職員会議は校長、教頭の下に位置づけられていたこと、このため川内南中分会は校長に対し、職員会議は最高決議機関とすべきもので、右進動機構は職員会議に掛けてないから職員会議に掛けるようにと申し入れるとともに右申し入れが受け容れられない時は校務分掌を拒否する旨告げたこと、ところで、川内市立学校管理規則には、職員会議は校長が校務処理上必要と認める事項についての諮問機関であると定めていること、右趣旨の定めは昭和三五、六年頃から存在していたことがいずれも認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(イ) 同<2>のうち分会が校長との交渉を行うに際して、教頭との予備交渉をしなかったことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、島元校長は川内南中に着任後分会に対し地方公務員法五五条五項に定めるいわゆる予備交渉をするように指示したにもかかわらず、分会は慣行として直接交渉を今まで認めているとして予備交渉をしなかったこと、右指示にもかかわらず分会員が直接校長室に押しかけるため、校長は予備交渉のないまま分会との交渉に応ぜざるをえなかったこと、島元校長の前任の滝崎校長当時、同校長も予備交渉をするように指示したが、分会は予備交渉の慣例はないとして予備交渉をしなかったこと、一般に学校長と学校職員団体との交渉は予備交渉を経てなされる慣行であったことが認められる。

(2)(ア) 被告委員会の主張2(三)(1)(イ)<1>のうち校長が昭和五二年五月二七日、永野教諭に対して北薩地区進路指導研修会への出席を要請し、これを拒否した同教諭に出席を命ずる職務命令を出したこと、分会がこれに抗議して校長に交渉を要求したこと、第三、第四校時のあき時間の分会員が校長室において校長に対して右職務命令の撤回を要求したことは当事者間に争いがない。

(証拠略)及び前記争いのない事実によれば、進路指導研修会は県の教育委員会が行うその年における進路指導に関する指導であり、その趣旨の徹底のための説明会であること、右研修会には進路指導担当者が出会するようにとの指示があったこと、昭和五二年度の前記研修会の通知が川内南中に来たのは同年五月一七日ころであること、同年の川内南中の進路指導は進学担当が永野教諭、就職担当が川畑教諭であったこと、そこで島元校長は同年五月二三日就職指導担当の川畑教諭に出会を依頼したところ川畑教諭から永野教諭が主任であるから永野教諭に頼むのが筋であると言われたため、校長はその日に永野教諭に進路指導研修会への出会を依頼したところ同教諭は出会を承諾したこと、ところが翌日永野教諭は分会決議であるので出会できないと言って出会を拒否したこと、校長は再考を促したが返事がなかったので翌二六日再度永野教諭に出会を依頼したが、分会決議であるから出会しないとの返事であったこと、そこで校長は研修会当日の二七日に更に出会を依頼したが、永野教諭は当日になって中間考査のテストの範囲まで授業ができないと言って承諾しなかったこと、校長は二三日に永野教諭が一旦出会を承諾していたため出会しても授業に支障はないと判断し、研修会開会時間の午前一〇時直前の九時四五分まで説得したが承諾を得られなかったので、研修会出席の職務命令を出したこと、分会は右職務命令に対し校長交渉を要求し、予備交渉をすることなくあき時間(あき時間は授業がない時間であるが勤務時間である。)中の分会員が校長室に入り込み、職務命令を出したことの謝罪と、右職務命令の撤回を要求し、応じなければ校務を返上するとか、どうしても永野教諭というのであれば中間テストを延期せよと申し入れたことが認められ、(人証判断略)、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(イ) 同<2>のうち分会は五月二八日から職員朝会ボイコットに入ったこと、同日午後分会員らが校長に対し職務命令の撤回を要求したことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、昭和五二年五月当時、川内南中においては毎週火、水、金、土に職員朝会を行っていたこと、同職員朝会では一日の日程、諸学校の行事等についての打合せ、連絡調整、校長の指導、助言等が行われていたこと、職員朝会は学校の教育課程に組みこまれた行事であること、分会は五月二八日朝、校長に対し職員朝会ボイコットを通告したこと、校長、教頭、非組合員は同人らだけで職員朝会を行ったこと、分会員は別の教室に集まり、分会長が日程連絡等していたこと、校長は分会員に職員朝会への出会を頼んだが拒否されたこと、原告吉満は校長に対し、職務命令を出せば職員朝会に出るとか、授業は行うがほかのことはやらない旨述べたこと、五月二八日午後、分会は校長と交渉し、職務命令の撤回を要求したこと(当事者間に争いがない。)、その交渉のなかで分会員から、こんな校長は学校にはいらない、校長は市教委へ机を持って出て行けという旨の発言があったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(ウ) 同<3>のうち五月三〇日午後四時ころから約一時間にわたり、分会員が校長室において校長に対し、「永野教諭に対する職務命令はまちがっていた。」、「職務命令は学校現場にはなじまない。」旨の確認を要求した事実は当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、分会は校長に対し、「職務命令を出すには慎重にし、今後は職務命令は出さない。」旨の確認を要求したこと、右各要求が容れられないときは校務を返上する旨通告したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。その他の事実はこれを認めるに足りる証拠がない。

(エ) 同<4>のうち五月三一日原告西村らが校長室において校長に対し、前日の三点の確認要求に対する回答を求めたこと、これに対し校長は右三点について、当該職務命令はやむを得なかった旨の回答をしたこと、右原告らが分会名義の質問書を手交して回答を求めたことはいずれも当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、右原告らは校長の右回答に満足しなかったこと、同日ころ原告川畑は自己の担当すべき就職生調査事務を拒否し、一方的に関係書類を校長の机上に置いていったこと、右交渉において原告らは雑務(教科経営以外の仕事のこと)返上を通告したことがそれぞれ認められ、(人証判断略)。他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(オ) 同<5>のうち六月一日午後四時ころ、分会員らが校長室において校長と交渉を行ったこと、右交渉中PTA総務部長が校長室に入ってきて、「これは何事ですか」と言ったことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、右交渉に入って間もなく、たまたま購買部契約の件で学校に来ていたPTAの会長、副会長、総務部長のうち、総務部長が校長室に入ってきて、「これは何事ですか」と言ったところ、分会員が会議中ですと答えたため総務部長は出て行ったこと、その後分会員らは、校長がPTAに事前に通告したんじゃないか、不当労働行為じゃないかと校長に詰問したことが認められ、右認定に反する(証拠略)は措信せず、他に右認定に反する証拠はない。

(3)(ア) 被告委員会の主張2(三)(1)(ウ)<1>のうち六月六日から二週間教育実習生二名が来たこと、同日から六月二一日まで職員朝会ボイコットを中断したこと、六月六日ころのあき時間、放課後に分会員らが校長室で、組合支部主催の教科書研究会出席の年休扱いについて抗議し、研修扱いにするよう要求したこと、六月一日の交渉中、PTA役員らが来たことについて支部に連絡した旨述べたことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、六月六日の職員朝会において教育実習生の紹介の後、原告西村は教育実習生の面前で、「今の校長は研修の承諾すらできないで、ロボット校長である。すべて市教委や県教委の命令伝達機関である。こんな校長は学校には必要ではない。」旨の発言をしたこと、前記六月一日の交渉中PTA役員らが来たのは不当労働行為であるとして支部に連絡した旨述べたものであることが認められ、右に反する原告荒武重信本人の供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(イ) 同<2>の事実は交渉に当った分会員の特定の点を除き当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば被告主張の分会員らが校長と交渉したことが認められる。

(4) 同(エ)、(オ)の事実は当事者間に争いがない。

(5) 同(カ)のうち、六月二九日、原告荒武が校長に対し、管理職任用試験について質問があるからこれについて職員会議を開いて欲しい旨求めたこと、校長がいったんはこれを拒んだが結局応じたことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、その余の事実及び右団結賞は川内市労働組合評議会が文化祭において発行したものであること、右団結賞は賞状が並べてある端に並べられたところそこが校長室入口の上であったこと、労働組合等が傘下組合の分会に対し発行した賞状が生徒らの賞状と並べて学校に掲示される例はその性格上ほとんどないことがいずれも認められ、右認定に反する原告荒武重信、同西村治朗の各供述部分は措信せず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(6) 同(キ)の事実について

(証拠略)によれば、七月六日分会交渉が行われたこと、その際分会員が校長に対し、給食当番をせよとか便所の水を流せ等と述べたこと、七月一六日分会交渉が行われたこと、その際分会は、教職員は夏休み期間中校長が承認した研修計画に従って学校以外の場所で研修することが許されており、校長としては右勤務の態様や緊急の場合の連絡先を把握しておく必要から校長が提出を求めた夏休み期間中の勤務についての動静表に、勤務の態様だけを記入し、連絡先、電話番号は記入せず、右連絡先、電話番号の記入要求を拒否し、この要求に対し抗議し、動静表を一括して教頭へ返還したこと、また右交渉の際原告西村は、校長の生徒に対する話しについて、校長は資本主義的な考え方を生徒に話しては困るとクレームをつけたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

同(キ)<1>の事実のうち、七月一三日の原告西村の行為については具体的事実の主張がなく、また、具体的事実を認めるに足りる証拠もない。

(二)  (昭和五二年九月~一〇月の状況)

(1) 被告委員会の主張2(三)(2)(ア)(「日の丸」掲揚問題をめぐる紛争)について

(ア) 同(ア)<1>、<2>の事実のうち、九月一日の職員朝会がボイコットされたこと、九月二日原告荒武が校長に対し分会の決定として、職員朝会のボイコットと三角柱の抗議行動は解く旨伝えたことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、その余の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(イ) 同(ア)<3>の事実のうち、「原告西村及び北原教諭が、国旗掲揚については我々は反対であるから、ここで決議してもらいたいと発言」したことを除き当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、その余の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(ウ) 同(ア)<4>の事実のうち、九月二一日体育大会の予行演習が行われたこと、右予行演習において、開会式の予行で「日の丸」が掲揚されなかったことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、校長が体育主任に開会式の予行でなぜ国旗を掲揚しないかと聞いたところ、体育主任は、体育大会当日は掲揚するつもりであるから、予行では省略するように生徒を指導してあると答えたこと、後に原告荒武が校長に対し、予行で国旗を掲揚しないことは分会の決議である旨述べたことがそれぞれ認められ、これに反する証拠はない。

(エ) 同(ア)<5>の事実のうち、九月二二日の一校時に生徒に自習をさせて職員会議が開かれたことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、九月二二日の職員会議は臨時職員会議であったこと、右会議は前日行われた体育大会の予行演習後に反省会が行えなかったため反省会を行う目的で開催されたものであること、右時間に開催されたのは職員の強い要請によるものであること、右職員会議において予行演習の反省等も行われたが、主として「日の丸」掲揚のことが議題となったこと及びその余の主張事実が認められ、これに反する原告荒武重信の供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(オ) 同(ア)<6>の事実のうち、九月二四日の職員朝会において「日の丸」の下に生徒会旗をつけることについて議論されたこと、その後校長が市教委に行ったこと、同日午前一一時五〇分ころ臨時職員会議が開かれたこと、その場で校長が市教委から「日の丸」と生徒会旗は別々に掲揚するようにとの指導を受けた旨述べたこと、生徒会旗掲揚のため旗竿が立てられたことはいずれも当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、九月二四日の職員朝会で原告川畑は校長に対し、校長は国旗掲揚は昨年なみといったが、昨年は国旗の下に生徒会旗をつけたから、国旗の下に生徒会旗をつけるように述べたこと、これに対し校長は、国旗に他の旗をくっつけることは慣習上からも許されない、また国旗の取扱い上からも問題があると言って、国旗は国旗として掲げるように言ったこと、職員側は、昨年は市教委も滝崎校長も認めたのであるから昨年なみにせよと要求したこと、校長は市教委が認めたのであればよいと述べ、市教委で調べてみると言って職員朝会を閉会したこと、校長が教育長らと話合ったところ、市教委から、昨年「日の丸」の下に生徒会旗をつけることを認めたことはない、「日の丸」と生徒会旗は別々に掲揚するようにとの指導があったこと、校長は帰校し臨時職員会議で市教委の右指導を伝えたこと、これに対し職員は、この前昨年なみと言ったから昨年なみにして下さいとか、なぜ校長は市教委の指導によって我々の決定をくつがえしたのかと発言したこと、原告川畑は、我々は国旗の下に生徒会旗をつけるよう生徒に指導してあるからあとは校長が生徒の指導をやれ、我々はやらないと抗議したこと、これに対し、校長は生徒会担当の先生方で指導してほしいと述べたこと、すると原告川畑は、「馬鹿野郎まだわからんか」と、原告西村は、「この学校は姶良郡の学校のような馴れ合い学校とは違う」とか、「校長は職員会議でものを言うな、だまっておれ」と、原告吉満は、「馬鹿、くらわすぞ、国旗の紐を切ってやる、切ってあったらおれがしたと思え、切られたくないなら今夜校長は一晩中国旗掲揚の番をせよ」とそれぞれ面罵したこと、右職員会議は職員の罵声と怒号のうちに終ったこと、校長は生徒会旗を「日の丸」と別々にあげようと考え、翌日の体育大会に備えて教頭、生徒会役員二名とともに竹を切り旗竿を立てたことがいずれも認められる。

右認定に反する原告荒武重信、同川畑清美、同西村治朗の各供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(カ) 同(ア)<7>の事実は当事者間に争いがない。

(2) 同2(三)(2)(イ)(「日の丸」掲揚に対する抗議行動)について

(ア) 同(イ)<1>の事実のうち、九月二七日の職員朝会において、職員が校長に体育大会の反省会を早急に開くよう要求したこと、校長は九月二八日の職員朝会終了後校長室に入って来た分会長の原告荒武に対し、「日の丸」掲揚の問題について話合いはしない旨述べたこと、同日一校時のあき時間の分会員が校長に対し話合いを求めたこと、同日午後四時一五分ころから体育大会反省職員会議が開かれたことはいずれも当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、その余の事実が認められ、これに反する原告荒武重信、同西村治郎の各供述部分は措信せず、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

(イ) 同(イ)<2>の事実のうち、九月二九日午後四時一五分ころ職員会議が開かれたこと、右職員会議において「日の丸」掲揚問題、体育大会の来賓の接待について論議がなされたことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、九月二八日に翌日も職員会議を行うように申し入れがあり、翌二九日職員が国旗掲揚問題以外にも話しがあると言って職員会議を開くことを要求したため校長は同日午後四時一五分ころ職員会議を開いたものであること、右職員会議でふたたび「日の丸」掲揚問題が議論されたこと、また右職員会議において職員側は体育大会の来賓の接待について、来賓はテントに案内するだけにして、昼食を出すべきでないと主張し、原告西村は、このことを決議してもらいたいと要求したこと、右昼食の費用は川内市教育委員会の予算から支出されたものであること、職員会議は午後四時五〇分ころ終ったことが認められ、右認定に反する原告荒武重信、同西村治朗の各供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 同2(三)(2)(ウ)(職員朝会、職員会議ボイコット)について

(ア) 同(ウ)<1>の事実のうち、一〇月一日から職員朝会ボイコットに入ったことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、その余の右主張事実及び右職員朝会ボイコットとは、職員室において職員朝会をなすべきときに、学校行事等運営事項を書く黒板があり、かつ校長、教頭のいる正面の方向とは反対の方を向いて、校長、教頭を除いた職員たちで連絡会をし、校長、教頭には発言を許さないというものであったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(イ) 同(ウ)<2>の事実のうち、一〇月二〇日校長が原告荒武らと話合ったこと、その中で校長が「本日職員会議を開く、職員会議の冒頭に『いろいろありましたが今後とも先生方の意向には十分留意しながら、最終的には、私は校長として、地域の実態をふまえ、生徒並びに親に対して直接責任を負うつもりで、運営に当たります。』という趣旨の話しをするから、分会員を説得してもらいたい」旨述べたこと、その後校長が地域云々の部分を削除する旨述べ、右荒武らがこれを了承したこと、同日午後四時過ぎ職員会議が開かれたことはいずれも当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、その余の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(三)  (昭和五二年一一月の状況)

(1) 被告委員会の主張2(三)(3)(ア)(主任制度反対闘争)について

(ア) 同(ア)<1>の事実は当事者間に争いがない。

(イ) 同(ア)<2>の事実のうち、一一月一日の職員朝会において原告西村が校長に対し、全国中学校長会が主任手当問題について国会通過の陳情をなしたか、校長は右陳情に参加したか否かについて質問したこと、校長が右陳情は知らない旨答えたことは当事者間に争いがない。その余の事実は、(証拠略)によって認められ、これに反する原告西村治朗の供述部分は措信できず、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

(ウ) 同(ア)<3>の事実のうち、一一月二日から職員室で三角柱が机の上に立てられたこと、右三角柱には「主任手当不要、主任手当返上、もらわない」「教員はこじきではない」「管理職手当をもらって校長はロボットになった」「主任手当、なんでも金で解決する日本人」「手当で教育ができるか」などの文言が書かれていたこと、校長が原告荒武(分会長)に三角柱の撤去を求め、同原告がこれを拒否したこと、同日午前九時三〇分ころ右原告らが校長室に行ったこと、校長が同人らに対し、長野県の教育事情を話したうえ「南中は日本一のがんたれ学校だ」と述べたこと、これに対し右原告らが、校長は長野県に行ってはどうかと言ったこと、その際三角柱闘争、父母と教師の教育を語る会、主任手当等について話合ったことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、職員室に立てられた三角柱は二三個であったこと、右三角柱は鹿教組の支部からの指示で分会員が置いたものであること、右のうち一二個は職員室の校長の机上に並べられ、校長が撤去を求めても従わず、校長は原告吉満から右三角柱は私物である旨言われたため、捨てることもできず、部屋の隅に片付けると翌朝はまた校長の机上に置いてあるといったことがしばらく繰返されたこと、校長が分会に対し三角柱を立てるなと注意したところ、分会員らは職員の机上の上に棒を立ててその間に針金を張り、針金に幾つも三角柱を吊るしたこと、校長は校長室で原告荒武らに対し「本校のように荒れた学校は他にない、いつも学校教育外のことでもめている、本校は少し見習うべきである、本校は組合活動のみあって教育活動はないのではないか」と話したこと、校長の話したことに対し、原告荒武らは、我々はこの学校を日本一進歩的な学校とみていますよと述べたことが認められ、これに反する証拠はない。

(2) 被告委員会の主張2(三)(3)(イ)(校長の軟禁、原告吉満の暴力的言動)について

(証拠略)によれば、同2(三)(3)(イ)の事実が認められ(但し校長が校長室から出るときには分会員の囲みはとけ校長は平穏に退出できた。)、右認定に反する原告西村治朗の供述部分は措信せず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) (人証略)によれば、同(3)(ウ)の事実のうち、分会はその後も組合活動を展開したこと、支部の方針に基づく川内南中分会計画の父母と教師の「教育を語る会」については、これを学校行事として認めるように校長に要求したこと、校長は学校行事にないことから学校行事ではやれない旨話したこと、分会は今度はPTA主催として行うよう要求したこと、PTAはこれを行ってもよい態度を示したが結局実施されなかったことが認められ(右認定を覆すに足りる証拠はない。)、その余の事実を認めるに足りる証拠はない。

(四)  被告委員会の主張2(三)(4)(昭和五三年六月一七日の職員朝会の模様)について

(証拠略)によれば、長野教頭は昭和五三年六月八日ころ潰瘍で入院したこと、当時同教頭は国語の授業を一〇時間担当していたこと、入院前は通院していたこともあり、担当の国語授業の進度は少し遅れていたこと、校長は教頭が入院したため同年六月一七日の職員朝会において職員に対して協力を頼んだところ、原告西村は校長に対し、長野教頭の後任には我々の推せんする者を任命するよう教育長と交渉することを要求し、原告吉満は「二年二組、二年三組の国語の授業が大幅に遅れ、生徒に不信感がある、早急に校長において善処せよ」と、原告荒武は「非常勤講師をすぐ入れるよう教育長と交渉をせよ」と、原告立石は「今からの時間割の変更や組換えはできないから校長がやれ」と、原告橋本は「授業は校長が担当せよ、ただし管理職手当を出せば協力もあり得る」とそれぞれ発言したこと、当時病休した教諭のかわりの非常勤講師は教諭の病休が九〇日経過しないと入れられないきまりであったこと、長野教頭の担当していた国語の授業は結局国語の先生である森教諭(非組合員)が五時間、原告西村が二時間、浜村教諭(組合員)が三時間担当したこと、同教頭はその年の二学期から出校したことがそれぞれ認められ、右認定に反する原告西村治朗の供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(五)  (昭和五三年一〇月中旬~一一月中旬の状況)

(1) 被告委員会の主張2(三)(5)(ア)(告発闘争等)の事実のうち、分会が昭和五三年一〇月中旬ころから三角柱闘争を行ったこと、同2(三)(5)(ア)<2>の事実、一〇月三一日後期校時表運用について交渉が行われ、分会が五〇分授業では文化祭の準備ができない旨述べたことはいずれも当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、昭和五三年一〇月中旬から分会は告発闘争を強化し、校長、教頭、非組合員の行動をチェックし、職員朝会においてこれを問題として取り上げ、批難、攻撃したこと、校長、教頭に対する無言闘争、非協力闘争なども行ったこと、一〇月下旬から一一月上旬までの間に分会は地区協議会としての要望一三項目、分会としての要望五項目をプリントした要望書を校長に突きつけ、受けとれ受け取らないで押し問答をしたこと、後期校時表の後期とは一一月一日から翌年三月三一日までであること、校長は文化祭の準備をするには五〇分授業では無理と判断し、文化祭までは四五分授業にしたこと、校長は職員室につるしたり、立ててある三角柱を見た外来者、父兄から見苦しいじゃないかということを言われたことがいずれも認められる。

右認定に反する(人証略)、原告川畑清美の各供述部分は措信せず、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

(2) 同(5)(イ)(「父母と教師の教育を語る会」のチラシ配布)の事実のうち、一一月九日分会は校長との間で川内地区協議会主催の「父母と教師の教育を語る会」のチラシ配布について昼食時、休憩時に交渉を行ったこと、分会が「父母と教師の教育を語る会」のチラシを生徒に配布したことは当事者間に争いがない。

(証拠略)によれば、一一月九日分会が校長との間で行った「父母と教師の教育を語る会」のチラシを生徒を通じて配ることの可否についての話合いにおいて、校長は組合の主催する会は組合活動であり、組合活動に生徒を巻き込むことは好ましくないと考え、右チラシを生徒を通じて配ることを認めなかったこと、同日午後三時三〇分ころから行われたPTA理事会において分会は前記チラシ配布について理事会の理解と協力を求めたが、理事会は右会を組合活動であるとして生徒を通じて前記チラシを配布することに反対の意向を示したこと、分会は一一月一一日校長、PTA理事会の意向を無視して無断で「父母と教師の教育を語る会」のチラシ(<証拠略>)を生徒に配布したことがいずれも認められ、右認定に反する原告中村弘明本人の供述部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 同(5)(ウ)(集団抗議、原告吉満いすを振り上げる」)の事実のうち、同(ウ)<1>及び同(ウ)<2>のうち臨時職員会議が午後五時一〇分ころ終了し校長は校長室に戻ったこと、その後分会員らが校長室に入ったこと、校長が一六ミリ映写機問題について、決算委員会では南中が名指しで挙げられたことはないこと、市内の学校で一六ミリ映写機が学校外に出ているらしいとのことで市教委が市内全学校を調査したこと、本校の一六ミリ映写機が理科室にあることが確認された旨説明したこと、原告川畑が議員らが事実を確認もせずに決算委員会で右問題を取り上げたのは軽率であり、校長は右議員らに謝罪を求めるべきである旨を述べたことはいずれも当事者間に争いがない。

(証拠略)を総合すれば、一一月一三日の臨時職員会議終了後校長が校長室に引き揚げると原告立石が「校長交渉、校長交渉」と言いながら分会員らとともに集団で校長室に入ってきたこと、校長はびっくりして原告川畑らに「何のことか」と言ったが、同原告らは「今から交渉するのだ」と言って、他の分会員も含め一七名で入ってきていすに坐ったこと、校長は予備交渉をしなければ交渉には応じないと言って拒否したが、分会員らは聞き入れなかったこと、分会は川内市議会決算委員会で市内の学校で一六ミリ映写機が紛失しているのではないかということで川内南中学を含め各学校を調査した(川内南中では一六ミリ映写機は理科室にあった。)ことに対し、校長に説明を求めたこと、前記当事者間に争いのない事実のとおり校長は説明し、これに対し原告川畑、同立石は謝罪を要求することを求めたこと、そこで校長が学校の分会で一六ミリ映写機問題を取り上げて問題にしていると言っていいのかとか、これは職員会議で取り上げた問題ではないと述べたこと、その間原告西村、同瀬戸口らは「ばかたれが」等と罵声を浴びせたこと、分会員の執拗な謝罪要求に対し校長は、市議会で取り上げられたものを、その当事者能力もない一校長が謝罪せよと言うことは筋違いであり、校長としてはとても要求できないと判断したため、分会員の右要求を拒否したこと、すると、校長から約三メートル離れたところに坐っていた原告吉満は非常に興奮した様子で校長に対し「何をわいが、ばかたれが」というようなことを言って立ち上ったこと、その際下を向いて懸命に記録をとっていた長野教頭の耳にも二回位コトという音が聞えたこと、直ちに田尻教諭らが原告吉満を制止したこと、この原告吉満の行動に対し、これまで分会員らからの無理な要求や罵り雑言に耐えてきた校長は、危険を感じ、すぐ立ち上るとともに真底激怒し、「馬鹿にすんな、やるならやるぞ、お前がなんだ、そんなにおれが憎いのか」等と一喝したこと、原告吉満はなおも身を震るわせて「おれは校長を信用していない」と言ったが、他の分会員らはそれまでの言動から一転して「私たちはけっして校長が憎くて言ったのではありません。誤解しないようにしてください。」とか「私たちは校長を責めているのではありません。」とか「先生のご苦労には感謝しているのです。またわれわれの意向もよく伝えてあることも聞いています。校長も忙しいようであるから」等と宥めるようなことを言って全員校長室から退去したことがいずれも認められる。

右認定に反する原告中村弘明の供述部分は前記認定と対比して措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

けれども、原告吉満が校長に対しいすを肩の高さまで二回振り上げた旨の(証拠略)は他にこれを裏付ける的確な証拠がなく、採用できないし、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。

しかし、右認定した事件の経過を見ると、原告吉満は校長に対し、校長にとってはそれまでの忍耐の限度を越えるような、かつ校長に対し「ばかたれが」等と罵り雑言を浴びせていた他の分会員らから見ても、余り行き過ぎたと思われる行為に出でたことは否定し得ないところである。

(4) 校長の辞意表明とその撤回

(人証略)によれば、右昭和五三年一一月一三日の事件により深刻な打撃を受けた校長は、翌日一杯熟考したうえ、同月一五日川内市教育委員会に出頭し、教育長に対し「川内南中の校長として負託された学校経営を全うすることは非常に困難であるから、進退を一任したい。」旨申出たところ、教育長から強く説得、慰留されたためにほん意したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

(5) 被告委員会の主張2(三)(5)(エ)(その後の経過)の事実のうち、同(エ)<1>及び一一月二一日の職員朝会において、校長が職員に、昨日電々公社から「電話の上手なかけ方」についてのチラシを生徒に配布して資料として使ってほしいとの依頼があったので右チラシを配布するよう依頼したこと、分会員らは右依頼を拒否したこと、原告西村らが、校長室において、PTAが「父母と教師の教育を語る会」に出会しないよう呼びかけているとのうわさについて校長が知っているかどうか質問したことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、その余の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(6) 卒業アルバムの写真撮影について

(人証略)によると、昭和五二年度の卒業アルバムの写真撮影の際、校長と教頭が連絡を受けて行って見ると、端を空けて他の職員全員が着席していたため、校長と教頭はやむなく端に坐って撮影したこと、そこで翌五三年度の写真撮影の時には、校長と教頭は早めに行って中央に着席していたところ、他の職員らが校長と教頭が端になるように席を移動してしまったこと、父兄側から右のような写真撮影に抗議があり、改めて校長、教頭を中央にした写真を撮り直したことが認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

4  (川内南中問題に対する外部の動き)

(一)  被告委員会の主張2(四)(1)(地域住民の学校正常化への動き)の事実のうち、分会が昭和五三年一一月一一日校長及びPTA理事会の反対を無視して「父母と教師の教育を語る会」のチラシを生徒を通じて配布したことは前記認定のとおり認められる。

(証拠略)によれば、内田校長時代からの川内南中の現状に対して危惧を深めていた一部の父兄達は、校長及びPTA理事会の決定を無視した分会の右行動を契機として川内南中の教育を守る会を結成したことが認められる。

(二)  被告委員会の主張2(四)(2)(川内南中学校区教育振興会の発足及び行動)について

(1) 同(2)(ア)の事実のうち、昭和五三年一一月二〇日付け「川内南中学校の教育を守る会(仮称)結成について」と題する文書が川内南中学校区住民に配布されたことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば右文書は約三五〇〇枚配布されたことが推認でき、(証拠略)によれば、その余の事実が認められる。

(2) 同(2)(イ)の事実のうち、昭和五三年一一月二四日教育振興会の代表が県北薩教育事務所長に対して抗議書を手交したこと及び同月二八日被告委員会教育長に対して「正常な学校に戻すよう善処すること」を要求したことを除き当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、教育振興会の県北薩教育事務所長に対する抗議書交付の事実及び同会代表による被告教育長に対する学校正常化要求の事実はいずれも推認され、右認定に反する証拠はない。

(三)  被告委員会の主張2(四)(3)のうち(ア)の事実及び(イ)の事実のうち一二月一三日鹿児島県議会文教衛生委員会において、川内南中問題が審議され、教育振興会の陳情が採択されたことはいずれも当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば一二月一六日鹿児島県議会本会議においても教育振興会の陳情が採択されるに至ったことが推認され、これに反する証拠はない。

(四)(1)  被告委員会の主張2(四)(4)(ア)の事実のうち、「暴力先生はゴメン・きょう父母ら追放大会」(南日本)、「(弱腰行政もヤリ玉に・川内南中教育振興会が発足」(南日本)、「正常化はかろう・チラシ配り教師批判」(毎日)、「人事の甘さ抗議へ・川内南中PTA有志教育を守る会結成」(毎日)、「川内南中学校の正常化急げ・父母代表ら直訴」(南日本)、「川内南中の教師問題・放置すれば登校拒否」(読売)の見出しの新聞報道がなされたことは当事者間に争いがなく、(証拠略)によれば、教育振興会発足以降、新聞は川内南中問題についてしばしば紙面をさき大きく報道したことが認められ、これに反する証拠はない。

(2)  同(4)(イ)の事実のうち、鹿教組川薩地区支部が反論を行ったこと、昭和五三年一二月八日読売新聞は「川内南中紛争・生徒巻き込み泥沼化・父母と先生の対立エスカレート・告発、反論チラシ合戦」の見出しのもとに報道していることは当事者間に争いがない。

さらに(証拠略)によれば、一二月八日の右読売新聞は父母と教職員の抜き差しならぬ相互不信について報道していることが認められ、これに反する証拠はない。

5  以上の事実によれば、川内南中における分会と校長との対立は既に内田校長時代に始まっていたと推認されるが、島元校長は、着任早々から職員会議の性格、主任制問題、職務命令をめぐる問題、管理職任用試験制度問題等々校長としては分会の要求に応じることが不可能ないし困難な事項につき分会員らとの交渉を要求され、分会に対し履行するように求めた交渉のルールを無視した交渉要求にも口では拒否しながらも事実上応ぜざるを得ず、執拗に繰返される同内容の交渉の対応に追われ、落着いて学校経営に取組む余裕がない状態であったこと、しかも、分会員らは、その要求を通すために、事ある毎に校務分掌拒否を言明し、或いは実際に一部拒否し、職員朝会をボイコットする等違法な行為により校長に圧力を加え、校長に対し中学校の教職員としては非常識な各種の嫌がらせや面と向っての罵り雑言果ては暴行、脅迫的行為にも及んだため、両者間の信頼関係は全く損われ、校長の学校経営に対する自信を喪失させるに至ったもので、職員の構成をそのまま維持するときは学校教育に重大な悪影響を及ぼしかねない事態に立至っていたこと、そのうえ、右学校の状況に危惧を深めていた一部父兄ら地域住民が事態の解決を求めて活動を開始し、次第に分会との対立が激化するに及び、社会問題として大きく新聞報道され、市議会及び県議会においても問題として取り上げられるようになったところから、被告委員会は、紛争解決のために定期異動の時期をとらえて校長及びもう一方の紛争当事者である分会員らの大部分の者を含む大巾な人事異動を行う以外に適切な方法がないと判断して原告らに対する本件転任処分をなしたことは明らかである。

別表1

<省略>

6  次に本件転任処分に至る手続的経緯を見るに、(証拠略)によれば、昭和五四年度の人事異動は別表7(略)のとおりの経過で行われたこと、昭和五三年一一月二九日被告は鹿教組に人事異動についての交渉申入れをしたこと、これに対し鹿教組は教育委員五人との交渉を要求したこと、右交渉は昭和五四年二月九日に至って実現したこと、鹿教組は所属組合員の身上調書(異動個票)凍結戦術を採ったため、身上調書の提出期限である昭和五四年一月二三日までに身上調書は校長に提出されなかったこと、右提出期限後も各教職員から人事異動についての希望を聴取する機会を用意したが、鹿教組はこれを拒否し、各教職員からの希望聴取もできなかったこと、このため組合員らの時機に適った意見の反映ができなかったことがいずれも認められる。それにも拘わらず、原告らが不当に不利益な転任地を決定されたと認めるに足りる証拠はない。

三  原告らの違法の主張に対する判断

1  原告らは、被告委員会が、昭和五四年度人事異動の重点において定める同一市町村ないし同一校における継続勤務年数を基準として実施した同年度の鹿児島県公立小・中学校教職員人事異動は違法であり、したがって右人事異動の一環としてなされた本件転任処分も違法である旨主張するが、本件転任処分は、右基準によるものではないから、右主張は、その前提事実を欠くものであり、理由がない。

2  原告らは、本件転任処分は、原告ら及び分会の組合活動を阻害するためになされたものであるから、地公法五六条に違反すると主張する。

しかし、前記説示のとおり、本件転任処分は、原告らが違法、不当に及ぶ行為をしたために健全な学校経営が困難な状況に陥ったのを解決するために行ったものであって、原告らが分会員であること又は分会のために正当な行為をしたことを理由とするものではないから、右主張は理由がない。

3  原告瀬戸口を除く原告らは、同原告らに対する本件転任処分は、強い留任希望を表明していたにも拘わらず、同原告らの承諾を得るための話合いもせず、鹿教組との交渉、協議も行わずに機械的に人事異動の標準に当てはめて行ったものであるから、教員の教育の自由ないし教育権の独立を保障した憲法二三条、二六条、教育基本法六条二項、一〇条一項に違反すると主張する。

よって検討するに、右1、2において説示したとおり、右原告らの本件転任処分は、校長と分会員らとの深刻な対立、地域住民が抱いた川内南中の教職員に対する不信感のため困難に陥った学校経営の健全さを回復するため行われたものであり、機械的に右人事異動の標準に当てはめて行ったものでもない。また前記二5において認定したとおり、被告委員会は、右原告らに対し人事異動についての希望聴取の機会を用意したが、鹿教組の指示によりこれを拒否したため、その希望聴取ができなかったものである。

したがって、原告らの右主張は、その前提とする事実が認められないのみならず、本件転任処分は、教育基本法の目的とする教育を阻害する状況を打開するために必要な処分であったと認められるので、右教育目的の手段として認められている教育基本法一〇条一項、六条二項に違反するものではなく、憲法二三条、二六条に反するものでもない。

4  次に原告らは、本件転任処分は、裁量権の範囲を踰越し、処分権を濫用した違法なものであると主張するので、この点につき判断する。

前記二(本件転任処分の理由並びに経緯)において認定した事実によれば、本件転任処分の必要性、合理性は肯認でき、かつ本件転任処分につき原告らの承諾を得ず、そのための話合いもなされていないのは、原告らが被告委員会が校長を通じて行った人事異動についての希望聴取に応じなかったためであるから、それが直ちに教育公務員の強い身分保障を定める教育基本法六条二項等の規定に違反するとはいえないし、鹿教組と被告委員会の教育長との間で締結された二・二七合意(右締結の事実及び六項目の文言については当事者間に争いがない。)に違反するものでもない。さらに仮に原告らが転任先において地域住民から「川内南中の先生」と言われて非難と蔑視を受け、精神的苦痛を蒙っているとしても、それは地域住民の原告らの行為に対する評価の問題であって、そのことが本件転任処分を違法ならしめる理由とはなり得ないし、原告川畑が転任により長時間の通勤を強いられたり、同荒武が離島に単身赴任を余儀なくされたり、原告らの組合活動が阻害される等の不利益を蒙ったとしても、右不利益は転任に通常伴う事柄であり、右不利益は、本件転任処分の必要性、合理性からみて、いずれもこれを受忍すべき程度のものであり、本件転任処分を違法ならしめるものではない。

以上説示したとおり、本件転任処分は、裁量権の範囲を超え、或いは処分権の濫用にあたるとは到底認め難く、他に原告らの右主張を認めるに足る証拠はない。

四  結論

よって原告らの本訴請求はいずれも理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 猪瀬俊雄 裁判官 天野登喜治 裁判官太田幸夫は転補につき署名捺印することができない。裁判長裁判官 猪瀬俊雄)

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